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呂不韋の最期はどうなったのか?秦の相国から自殺に追い込まれた理由について徹底解説!

中国戦国時代の政治家である呂不韋は、秦の相国として権勢を振るいましたが、始皇帝の生母との密通や反乱の疑いなどで失脚し、自殺に追い込まれました。

この記事では、呂不韋の最期について、その経緯や理由をまとめてみました。

呂不韋の出世と権力

呂不韋は元々商人でしたが、秦の公子の異人(後の荘襄王)に投資し、彼を秦王にしようと画策しました。そのために、自分の愛人だった趙姫(後の太后)を異人に譲り、彼女が既に妊娠していた子(後の始皇帝)も異人の子として認知させました。

異人が荘襄王として即位すると、呂不韋は相国となり、文信侯と号して洛陽の10万戸を領地として授けられました。呂不韋は3,000人もの食客を集めて『呂氏春秋』という書物を編纂し、一字千金と称されるほどの名声を得ました。

荘襄王が死去し、始皇帝が即位すると、呂不韋は仲父という称号を授けられ、秦で王に次ぐ権力者となりました。函谷関の戦いでは全軍の総指揮を執り、五国合従軍を撃退しました。

呂不韋の失脚と自殺

しかし、呂不韋は始皇帝の生母である太后と密通していました。これは元々好色であった太后からの誘いであったが、呂不韋も元愛人であった太后への未練を断ち切れずに関係を戻したのでした。しかし、始皇帝が成長するにつれて、この関係は危険だと感じた呂不韋は、嫪毐という巨根の男を太后に紹介しました。

太后は嫪毐に夢中になり、息子を2人生みました。嫪毐も太后の寵愛を背景に権勢を得ましたが、やがて太后との密通が発覚しました。嫪毐は反乱を起こしましたが、すぐに鎮圧されて処刑されました。太后も幽閉されました。

この一件は呂不韋へも波及しました。連座制に則り、処刑されるところでしたが、今までの功績を重んじた始皇帝によって、相国の罷免と蟄居に減刑されました。

しかし、呂不韋は蟄居後でも客との交流を止めず、諸国での名声も高かったため、始皇帝は呂不韋が客や諸国と謀って反乱を起こすのではないかと危惧しました。そこで、始皇帝は呂不韋に詰問状を送り、蜀地域への流刑を追加しました。

この詰問状を受け取った呂不韋は、結局最後には罪を咎められて殺されるだろうと悟り、毒を飲んで自殺しました。

呂不韋の最期はどうなったのか?秦の相国から自殺に追い込まれた理由について徹底解説!まとめ

呂不韋の最期については、以下のようにまとめることができます。

  • 呂不韋は秦の相国として権勢を振るいましたが、始皇帝の生母との密通や反乱の疑いなどで失脚しました。
  • 呂不韋は相国の罷免と蟄居に減刑されましたが、始皇帝によって蜀地域への流刑を追加されました。
  • 呂不韋は自らの末路に絶望し、毒を飲んで自殺しました。