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三遊亭円楽の若い頃とは?五代目と六代目の違いやエピソードを紹介

落語界の大御所として知られる三遊亭円楽。その名は五代目と六代目の二人が襲名していますが、彼らの若い頃はどのようなものだったのでしょうか?

この記事では、三遊亭円楽の若い頃とは何か、五代目と六代目の違いやエピソードを紹介します。

三遊亭円楽とは

三遊亭円楽とは、落語家の名跡です。初代から四代目までは後に別の名跡を襲名しているため、最終的な名として知られているのは2022年現在五代目と六代目のみです[1]。五代目は1933年生まれで、1962年に真打昇進して襲名しました。六代目は1950年生まれで、2010年に初名の三遊亭楽太郎から襲名しました。出囃子は『元禄花見踊』です。

三遊亭円楽の若い頃とは

三遊亭円楽の若い頃とは、それぞれに異なるものでした。五代目は戦時中に農業学校に通い、戦後に落語家を志しました。六代目は大学在学中に落語家になりました。以下に詳しく見ていきましょう。

五代目三遊亭円楽の若い頃

五代目三遊亭円楽は、本名を吉河寛海といいます。東京府東京市浅草区(現・東京都台東区)に生まれました。実家は浄土宗の寺院で、吉河家は戦国時代の武将・吉川経家を祖とする由緒ある家柄でした。しかし、祖父や父も僧侶でしたが、寛海は農民になることを決意しました。これは父親が「これからは食糧難だから農業だ」と言ったことが影響しています。

寛海は埼玉県立杉戸農業学校(現・同杉戸農業高等学校)に入学しましたが、そこで落語に興味を持ちました。上野鈴本演芸場で落語を見た時に「戦争ですべてを奪われ暗い顔をした人々にこうやって笑いを起こさせることができる落語はすごい」と感じたからです。

1955年2月、六代目三遊亭圓生に入門しました。圓生に入門した理由は「当時は志ん生師匠や文楽師匠の方が師匠より格上だったが、高齢で自分の面倒を最後まで見てくれるか分からなかったから」と述べています4。圓生から「一人前になるまで50年は食えませんよ」と言われたが、寛海は「30歳までに真打になれなかったら辞めます」と言って入門しました。圓生からは「三遊亭全生」という名をもらいました。

1958年3月に二つ目に昇進しました。1962年10月に真打に昇進して五代目三遊亭圓楽を襲名しました。これは寛海が30歳を迎える約3か月前でした。若い頃は「星の王子さま」という愛称で親しまれました。端整な顔立ちと博識ぶりにより、1960年代の演芸ブームの際には脚光を浴びました。7代目立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝休業後は8代目橘家圓蔵)とともに「東京落語四天王」と呼ばれました。

六代目三遊亭円楽の若い頃

六代目三遊亭円楽は、本名を会泰通といいます。東京都墨田区に生まれました。父親は会社員でしたが、母親は落語好きでした。泰通は青山学院大学法学部に入学しましたが、そこで落語研究部に所属しました。同じ部には橘右橘(寄席文字書家・演芸プロデューサー)や、後に兄弟子となる三遊亭楽松とは落研の発表会で会うなど、入門前から面識がありました。

1970年4月の在学中、五代目三遊亭圓楽の鞄持ちのアルバイトに志願しました。付き人を経てスカウトされ入門し、大師匠六代目三遊亭圓生の命名により「楽太郎」を名乗りました。圓楽の「楽」に長男を意味する「太郎」で楽太郎となりました。他の名前の候補には『道楽』、『楽々』、『楽がん』などがあったそうです。

1972年3月に青山学院大学法学部卒業しました。1976年7月、二ツ目昇進しました。1977年8月28日、六代目三遊亭圓窓の後任として『笑点』レギュラーとなりました。五代目圓楽の降板で欠員が出ていたため、5代目が着ていた薄紫の色紋付を着用することとなりました。

1981年3月に真打昇進しました。2010年3月1日、初名の三遊亭楽太郎から師匠の名跡である六代目三遊亭円楽を襲名しました。6代目は新字体である「円」の字を用いていますが、このことに関しては本人が「当代は常用漢字である円の字で通す」と表明しています。

三遊亭円楽の若い頃のエピソード

三遊亭円楽の若い頃には、様々なエピソードがあります。以下にいくつか紹介します。

五代目三遊亭円楽のエピソード

  • 五代目は若い頃から博識で知られており、落語のネタにも多くの知識を取り入れていました。例えば、『芝浜』という噺では、江戸時代の金貨や銀貨の価値や重さを正確に説明しています。また、『花筏』という噺では、日本史や世界史に関する豊富な知識を披露しています。
  • 五代目は若い頃から美食家としても有名でした。特に好きだったのはフランス料理で、自宅にはフランス料理の本がたくさんありました。また、自分で料理を作ることも好きで、『鰻屋』という噺では、鰻の捌き方や焼き方を詳しく説明しています。
  • 五代目は若い頃から女性にもてていました。その中でも特に有名なのは、女優の山口淑子さんとの交際です。二人は1960年代に付き合っていましたが、結婚には至りませんでした。その理由は、五代目が山口さんに対して「あなたは私の妻になれません」と言ったからだと言われています。

六代目三遊亭円楽のエピソード

  • 六代目は若い頃からスポーツが得意でした。特に好きだったのは野球で、高校時代には野球部に所属していました。また、大学時代には落語研究部と野球部の合同チームで全国大会に出場しました。その後も野球を続けており、現在も落語家野球チーム「落語会」の一員として活動しています。
  • 六代目は若い頃から音楽が好きでした。特に好きだったのはロックやポップスで、自分でギターを弾いたり歌ったりしていました。また、落語家としても音楽を取り入れた噺を得意としており、『音楽寄席』という企画では自ら作詞作曲したオリジナル曲を披露しています。
  • 六代目は若い頃から旅行が好きでした。特に好きだったのは海外旅行で、自分で旅行会社を立ち上げたこともありました。また、落語家としても旅行を題材にした噺を多く持っており、『ハワイアン・パラダイス』や『パリ・コレクション』などが有名です。

三遊亭円楽の若い頃とは?五代目と六代目の違いやエピソードを紹介まとめ

三遊亭円楽の若い頃とは何か、五代目と六代目の違いやエピソードを紹介しました。五代目は博識で美食家で女性にもてた人物でした。六代目はスポーツや音楽や旅行が好きな人物でした。どちらも個性的で魅力的な落語家でしたね。現在も三遊亭円楽の名を受け継いで、落語界を盛り上げています。