タレントとしてバラエティ番組で活躍するデヴィ夫人。
彼女はインドネシアの初代大統領スカルノの第3夫人として知られていますが、若い頃はどんな人生を歩んできたのでしょうか?
今回は、デヴィ夫人の若い頃について写真やエピソードをまとめました。
デヴィ夫人のプロフィール
- 名前:デヴィ・スカルノ(Dewi Sukarno)
- 本名(インドネシア名):ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ(Ratna Sari Dewi Sukarno)
- 旧名(日本名):根本七保子(ねもとなおこ)
- 通称:デヴィ夫人
- 生年月日:1940年2月6日
- 年齢:83歳(2023年9月現在)
- 出身地:東京府東京市麻布区霞町(現:東京都港区西麻布)
- 国籍:インドネシア
- 職業:タレント
- 配偶者:スカルノ(元大統領)
デヴィ夫人は東京府出身のタレントです。彼女は英語と中国語が堪能で、ピアノも得意です。趣味は旅行や料理など多岐にわたります。彼女はフェイスブックで自分の日常や趣味などを積極的に投稿しており、多くの友人と交流しています。
デヴィ夫人の若い頃は貧しい家庭で育ち、高級クラブで働いた
デヴィ夫人は裕福な家庭で育ったと思われがちですが、実際は貧しく苦労したそうです。父親は大工の棟梁でしたが、多額の借金がありました。母親は福島県出身で、戦争中は母親と弟と一緒に疎開していました。
デヴィ夫人は15歳の時に映画『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』にエキストラ出演しました。その後、高校に進学しましたが、父親が亡くなったことで中退しました。家族を支えるために保険会社や喫茶店などで働きましたが、それでも足りなかったそうです。
そこで17歳の時に赤坂の高級クラブ「コパカバーナ」で働くことにしました。そこでは外国人のVIPもよく来ており、水商売を始めたそうです。デヴィ夫人は美貌と教養で注目され、「社交界の華」と呼ばれるようになりました。
デヴィ夫人は19歳でインドネシアのスカルノ大統領と出会い、結婚した
デヴィ夫人は19歳の時に、日本とインドネシアの貿易会社の秘書という名目で、インドネシアのスカルノ大統領のもとに送り込まれました。これは日本政府がインドネシアへの開発援助を行うために仕組んだことだったそうです。
デヴィ夫人はスカルノ大統領に一目惚れされ、愛人の一人になりました。スカルノ大統領は当時すでに3人の夫人がいましたが、デヴィ夫人を気に入りました。デヴィ夫人もスカルノ大統領に愛情を抱きました。
1962年にデヴィ夫人はスカルノ大統領と正式に結婚し、第3夫人になりました。しかし、そのころ日本ではデヴィ夫人の熱愛報道が大騒ぎになり、母親と弟が相次いで亡くなりました。デヴィ夫人はこれを心の傷としていました。
デヴィ夫人はスカルノ大統領失脚後もセレブ生活を続けた
デヴィ夫人はスカルノ大統領と幸せな生活を送っていましたが、1965年に軍事クーデターが起きてスカルノ大統領が失脚しました。スカルノ大統領は軟禁され、デヴィ夫人も危険な状況に陥りました。
デヴィ夫人は日本大使館に亡命を希望しましたが、断られました。そこでフランスに亡命し、そこで娘のカリナを出産しました。その後、スカルノ大統領が亡くなると、遺産や資産を巡ってインドネシア政府と争いました。
デヴィ夫人はその後もセレブ生活を続け、世界中を旅行したり、貴族や俳優と交際したりしました。しかし、1992年にアメリカで女性の顔をグラスで切りつけて逮捕されたり、津川雅彦との不倫騒動が起きたりするなど、波乱万丈な人生を歩みました。
まとめ
デヴィ夫人の若い頃について紹介しました。彼女は貧しい家庭で育ち、高級クラブで働きながら美貌と教養を磨きました。19歳でインドネシアの初代大統領スカルノと出会い、結婚しましたが、その後も様々な困難や挑戦を乗り越えてきました。現在もタレントとして活躍しており、若い頃から変わらない美しさと気品を持っています。