2020年に本屋大賞を受賞し、広瀬すずと松坂桃李の主演で映画化された凪良ゆうの小説「流浪の月」。
女児誘拐事件の加害者と被害者の物語という衝撃的な内容で話題になりましたが、多くの人が「気持ち悪い」と感じた理由は何でしょうか?
この記事では、「流浪の月」が気持ち悪いと言われる理由や、原作と映画の違い、文の病気について解説します。
「流浪の月」が気持ち悪いと言われる理由
横浜流星さんの気持ち悪い演技が凄い
「流浪の月」で更紗の婚約者であり、モラハラDV男である中瀬亮を演じた横浜流星さん。これまで爽やかな役柄が多かった彼ですが、本作では難しい役を見事に演じきりました。亮は更紗に対して束縛や暴力を振るうだけでなく、文の過去をSNSで暴露したり、自殺未遂を図ったりするなど、非常に気持ち悪く不快なキャラクターです。しかし、それだけに彼の演技力は高く評価されており、TAMA映画賞では最優秀男優賞を受賞しました。
ストーリーが気持ち悪い
「流浪の月」は、女児誘拐事件の加害者である文と被害者である更紗が15年後に再会し、恋愛関係になるというストーリーです。この設定自体が一般的な感覚からすれば異常であり、気持ち悪いと感じる人も多いでしょう。また、2人は周囲から反対や批判を受けながらも自分たちだけの世界に閉じこもり、最後は逃亡するという結末も救いがなく暗いと感じる人もいるかもしれません。原作では、2人のその後のエピソードが描かれており、少しでも希望の光が見えるようになっていますが、映画では省略されています。
雰囲気が気持ち悪い
「流浪の月」は、映像や音楽も含めて全体的に退廃的で重苦しい雰囲気が漂っています。特に文が逮捕される場面や、文が全裸で自分の病気を告白する場面などは衝撃的で気持ち悪いと感じる人も多いでしょう。また、文が詩人エドガー・アラン・ポーの詩集から引用するシーンも、彼の孤独や苦悩を表現する上で重要な役割を果たしていますが、ポーの詩は死や狂気など暗いテーマが多く、それに合わせた音楽も不気味さを増しています。
原作と映画の違い
プロローグとエピローグが省略されている
原作では、物語の冒頭と終わりにプロローグとエピローグがあります。プロローグでは、文が更紗に出会う前の彼の生活や心境が描かれており、彼が小児性愛者ではなく、自分を受け入れてくれる人を求めていたことが分かります。エピローグでは、2人が逃亡した後の彼らの生活や周囲の反応が描かれており、少しでも希望の光が見えるようになっています。しかし映画では、これらの部分はほぼカットされており、2人の関係性や物語の結末に対する印象が変わってしまっています。
文が逮捕される場面が変更されている
原作では、文は更紗と一緒に動物園に行った際に通行人に見つかり、警察に通報されて逮捕されます。しかし映画では、文は更紗と一緒に公園の池に行った際に警察に見つかり、逮捕されます。この変更は、動物園という明るく楽しい場所で起こった事件というコントラストを強調するためだと思われます。また、公園の池は物語の中で重要な意味を持つ場所でもあります。
ポー詩集からの引用が追加されている
映画では、原作にはないポー詩集からの長い引用が追加されています。これは、文の孤独や苦悩を表現する上で重要な役割を果たしています。ポーは19世紀アメリカの詩人であり、「アナベル・リー」や「大鴉」など死や狂気など暗いテーマを扱った作品で知られています。文はポー詩集を常に持ち歩き、自分と重ね合わせて読んでいます。特に「アナベル・リー」は文と更紗の関係性に通じるものがあります。
「流浪の月」はなぜ気持ち悪いと感じるのか?原作と映画の違いや文の病気について解説します【まとめ】
この記事では、「流浪の月」はなぜ気持ち悪いと感じるのか?原作と映画の違いや文の病気について解説してきました。
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